戦中ライツの巨砲 ズマール
「香箋」G3 90mm f1.5
2022.10.05
ベレクの集大成的大口径レンズ
戦前の光学会社にとって大口径というのはかなり難しい挑戦でした。性能の良い大口径が作れる設計師は数える程しかおらず、ライツはシュナイダーの提供を受けていました。しかし自社でも努力を続け、ヘクトール 73mmではf1.9でしたが、さらにズマール 90mmでf1.5に達しました。製造は戦中になりドイツ軍に納入できた数百本に限られました (英特許 GB481710、米特許 US2171641、仏特許 FR822807)。後にズミクロンで採用される空気レンズが入っているなどかなりの意欲作ですが、実際に確認するとf1.5では足りておらず、実際の製造では若干暗くなっていた筈です。そのため新種のガラスを使ったというズマレックス 85mmでは確実にf1.5になるように明るくしたのではないかと思います。さらに画角も少し増したのでしょう。ズマールが90mmちょうどなら26.4度、ズマレックスは28度です。しかし古典レンズを使っているズマールの方がおそらく良かったでしょう。古典ガラスは最も無理がない自然なものだからです。

前玉の直径がこの図では57.6mm、ライカとしては結構大型で重いレンズです。フランジから前玉まで8cmぐらいです。

収差図を見るとベレクが本で説明しているような配置、ライカの特徴的な配置です。球面収差図がヘクトール 73mmに似ています。レンズ構成の違いで描写が変わってきそうです。

ベレクがトリプレットからすべてのガラスを貼り合わせ色消しにした「ヘクトール」は3つほど特許が出願されています。そのうち、1番目のものは50mm f2.5、2番目のものは73mm f1.9(パテントではf1.8)として実際に販売されました。そこで3つ目のものなのですが、少し暗くなって73mm f2です。肖像用のレンズなのでそれほど売れなかったことでこの改良型は生産されることはなかったようです (独特許
DE585456)。新しい3番目から見てみます。

この段階では50mm f2.0です。本来は73mmだと思います。感光面に5点光線を当てていますが、紺色が半画角17度でこれ以内が73mmです。隅まで充分な品質です。50mmではこれ以上の端の方が追加されます。茶が19度、桃色が22度です。これは73mmと考えたほうが良さそうです。

73mmに変更しました。よりライカ的な収差配置です。ベレクにとっての肖像用の最終回答だったのではないでしょうか。そう考えるとこれが実際に作られなかったのは残念です。
2番目の設計だった73mm f1.9も確認します (独特許
DE526308)。

新しい設計とは少し考え方が違うように見えます。そこで横収差図も見ることにします。似たようなことを異なる収差配置で設定しているように見えます。
このレンズはガラスの選定に特徴があり、すべて前クラウン後フリントの順に貼り合わせ、クラウンはいずれも同じSK15 (以下すべてショット社)です。フリントはF2,LF6,LLF2と順に屈折率、分散が低くなっています。その右に示している3枚のガラスはダゴールです。アンジェニューの一部の玉でも使われている手法です。静謐な表現となります。

ダゴールはこの3枚貼り合わせと同じものをもう一つ反転させて置いています。徐々に下げて徐々に戻しています。ヘクトールはそれはしていません。下げたままです。しかしこのことによって、あの繊細な表現が生み出されたのだろうと言われています。片方だけですがそれでも理想的なガラスの使い方です。優しい表現になります。しかし製造されなかったヘクトールでは、これをやめて6枚の内、前と後の2枚にクラウン、中は全部フリントガラスに変えています。逆光性能は高まった筈です。73mmはフレアが出ると言われていたのでこの対策だったのでしょう。コーティングをせずに対策できます。ダゴールはクラウンにガラスの薄いフリントにクラウンです。逆光は弱いです。傾向の話なので大雑把に言っているだけですが、事実そうです。フリントは昔は(今でもありますが)主に鉛を混入して不純物を含めています。重くなります。ダゴールは6枚なのですっきりと光を通したかったのだと思います。それでフリントのプレゼンスを下げ、大判レンズですから重くならないようにも配慮しています。ヘクトールも6枚でさらに空気とガラスの境界も増えています。それなのにフリントで中身を固めています。重厚感のある繊細な表現になりそうです。ですから改良はだいぶん印象が違う筈です。
吉田正太郎著「カメラマンのための写真レンズの科学」3章を見ますと、このヘクトール 73mmの歪曲についての説明を加えています。焦点距離73mmは半画角は16.8度です(しかし16度で角まで届きます)。
おもに人像写真に使われたヘクトールF1.9では、半画角17° あたりで糸巻型歪曲がピークに達しますが、画面周辺ではまた歪曲が少なくなるように設計してあります。17度は画面の端になりますが、イメージサークルがもっと大きいということで、さらに追跡したようです。そこでこれも確認しましたが、17度以上では潰れてしまいます。もはやこれで限界で、ここからさらに広げていくと計測不能になっていきます。しかしそこを強引にギリギリを攻めていくと確かに歪曲の曲線はゼロに戻る傾向があります。こういう設計は名レンズが多いので、それで指摘したものと思います。そのままどんどん離れていくのは魅力がないレンズが多いです。カーブしているのが良いものが多いです。それでずっと先まで辿って見ていくのだと思います。
新しい設計の方が優秀だと思いますが、しかしこれを完成させる前にすでに73mm f1.9の製造に着手してしまっていたのかもしれません。特許を取ったということは改良版として販売する意図があった筈です。球面収差のこの独特のカーブは修正していませんのでこれには拘っていた可能性が高いでしょう。それでも販売本数を見ると、ヘクトール73mmは市場から評価されなかったようですので、改良版は製造中止になったのかもしれません。現代でもヘクトール73mmを貴重なものと見なす人は少数なので、取り巻く状況は今も昔も同じなのかもしれません。新しい方が出ていたら状況は違ったものだった可能性はあるかもしれません。
一応、50mm f2.5も確認します (独特許
DE526307)。

これはより不完全です。それほど評価が得られていないのも納得です。
光学機器は高価なので、汎用のレンズを選んでそれだけで何でも撮影するというのがどうしても一般的になりますから、肖像用の用途に限定されたレンズはとても贅沢です。ライカでもへクトール73mmやタンバール90mmはあまり売れなかったので、これ以降、肖像用に特化したようなレンズは作られなくなっていったように思います。癖玉は使い手を選ぶし、使えないレンズと思ったら有名な写真家がどんどん傑作を撮るということもありますけれど、そういうことが特殊なレンズという評価になってしまい、ネガティブな印象を持たれがちです。特殊というとマウントエルマー105mmもそうかもしれません。癖玉ではないですが用途は限定されていますし、これだったら90mmで問題ないと大概の人が考えますのでなかなか受け入れられません。そういう経緯があったからなのか、次に設計された中望遠はズマレックス85mmになりエルマーとの比較で口径を二段編成にして汎用だけのラインナップにする、その上で大口径は肖像用も兼ねるという方向になってしまったのかもしれません。そこで幻の第三のへクトールですが、これを販売することが市場から許されていたら、それでも二段編成の流れにはなっていたと思いますが、過渡期の作品として意義深いものがあったように思います。大口径という程ではないので取り回しも良いし大口径で得られるボケ味もありますから、この方が受け入れられやすかったような気がしないでもありません。ですが、この復刻はしません。なぜなら、ズマール 90mmがさらに進んだ設計だからです。
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